長江文明 6 長江・黄河そして日本

長江文明 5 長江文明の衰退の続き。 3章 「長江・黄河そして日本」。この章は梅原氏と京都大学名誉教授であり考古学者の樋口隆康氏との対談がベース。この対談では各方面の話題が出て大変興味深いのだが、いくつかピックアップしてみる。 ・やはり何と言っても、文字の存在。北(殷:黄河文明)では見つかっているが、南(長江文明)では現時点で前段階の符号のようなものは出ているが、文字は見つかっていない。(樋口氏) 殷で見つかった亀甲文字 現在確認できる最古の漢字。 (画像はウィキペディアより拝借) ・文字の必然性を考えると、異民族を征服して一つの国に統一したことが文字の成立に関係しているのではないか?同じ民族、同じ文化なら文字を作らなくても言葉で意思疎通ができる。(梅原氏) ・統一したら、その範囲内においては同じ一つの文字がないと困る。亀甲文字というのはすごい。あれだけのものができたということは、それだけで大変。殷の優れている点はやはり文字の発明。(樋口氏) これは大変重要な指摘と思われる。このことは日本の縄文時代にも言えるのではないか。統一や征服とは縁遠い縄文時代の社会的背景が文字を必要としなかったのではないか? 言葉があれば意思が伝わるということ。 さらに、話題は多方面に広がり、 ・稲作は朝鮮半島経由でわざわざ遠回りでくるのはおかしい。長江から真っすぐ来たのではないか(樋口氏) ・北(黄河流域)では墓は地下深く掘って、そこに遺体や豪華な副葬品を安置し、地表の上に…

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長江文明 5 長江文明の衰退

長江文明 4 都市文明の成立の続き。 前回、「紀元前2000年頃(今から4000年前)頃を境にして、長江流域全体が停滞期を迎える。これが、中国歴史最大の謎である」で終わった。その続き。 ここで、もう一度石家河文化圏の三苗民族と良渚文化圏の古代越人について触れておく。 三苗民族は長江中流域で紀元前3000年前半から末期にかけての複合民族共同体。 ウィキペディアによると、『山海経』(中国の地理書)には「三苗人は人間の姿をしているが常に誰かとくっつきながら歩く」など、相当悪く書かれている。尤も、この書は秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて書かれたものなので、漢民族視点であることは言うまでもない。 また、三苗人は「南蛮」、「苗蛮」と記載されていたとも。(著者加筆 :要は野蛮人) 古文献上の広義にいう「三苗」は、部族や村落を単位として生活している民族たち、王朝の支配下におかれていない民族たちに対して総称的(同 :蔑称的)に用いられてたとみられ、複数の民族がそのなかには含まれるとも見られている。 ミャオ族(苗族)、ヤオ族はその末裔とも言われている。 石家河文化圏 古代越人(古代の越の先住民、祖先)、百越とも呼ばれる。ウィキペディアによると、「古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた越諸族の総称」とある。つまり、南方に住んでいた多くの民族諸族の総称なので、百を付けている。現在、越族という名の民族(中国でいう…

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長江文明 4 都市文明の成立

長江文明 3 土器の起源の続き。 第2章 都市文明の曙光 (問)都市文明はどこで発生したのか? (答)城壁を作っての城壁都市は長江中流域の城頭山遺跡が一番古い。紀元前3500年、今から5500年前から5000年前に巨大な城壁を作るようになった。但し、考古学上の証拠としては、今から5000年前から4000年前の間、とりわけ長江の中流域と上流域、それから黄河流域にたくさんあらわれるようになった。今の所、長江中流域が城壁都市を作るのも、稲作、土器の出現も一番古い。今後の調査に期待したい。 城頭山遺跡 (問)それはどのように発展したか? (答)5000年前、黄河流域、長江流域において、城壁を作って巨大都市を形成させるようなことが一般的な現象となっていた。考古学の発掘で、各地で戦争が頻繁に起きていたという証拠が見つかった。戦争が激しく行われたことで、人間とか集団はみな自分を守るため、どうしても城壁を作り、都市へと変貌していった。 約紀元前2600年から2200年頃(今から約4600年から4200年前)の原始社会部落分布の古代地図 興味深いのは「三皇五帝」神話と言われていた炎帝(神農)、伏義や黄帝の部族が地図上に表記されていること。 「三皇五帝」神話については、古代中国史をご参照ください。 (地図はDr. Gang Guo氏のホームページより借用) 戦争が頻繁に起こると、皆が一致団結して一つの事に当たらなければならない。皆を結束させる最大の力は…

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長江文明 3 土器の起源

長江文明 2 稲作農業の起源の続き。 次に、梅原氏の以下の3つの質問に対し、巌文明氏が大変謙虚に答えられている。 1.稲作農耕起源が何故長江中流か? 2. 石器文明、旧石器・新石器の関係 3. 土器の発生 巌氏の説明を簡潔に言うと、 1、今まで発見された中で、長江中域が差し当たって一番古い。しかし、唯一の中心地だったか判断するには時期尚早。下流域の稲作は中流から伝播した様相がない。今後下流域において発掘が進めばさらに古い時代のものが出てくる可能性はある。 長江下流域の遺跡分布をまとめてみる。 長江下流域の遺跡については、鳥越氏の「古代中国と倭族」が詳しいのでそこから引用する。文化区分別に記載。 ■河姆渡文化 (約7000年前) オレンジ 河姆渡遺址:浙江省余姚市 1973年6月に発見 炭素14の測定で紀元前5005年±130年、4790年±130年、今から約7000年前と計測される。黄河文明の仰韶文化が6000〜6500年前とされるのでこれをはるかに越える。発掘調査が小範囲であったため、水田遺構は発見されなかったが、大量の稲籾・稲茎・稲の葉や高床式住居跡が出土。 羅家角遺址:浙江省桐郷県 1979年〜80年に発掘。 同測定で紀元前5090年±125年、4955年±155年と計測。河姆渡遺址より少し遡る。炭化籾が多量に出土。分析の結果、インディカ米が70%、ジャポニカ米が30%。 ■馬家浜文化 (約6000年前) グリーン 馬家浜…

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長江文明 2 稲作農業の起源

先に長江文明について書いた。「長江文明の探求」(梅原猛氏、安田喜憲氏共著 2004年)という本を読んだことがきっかけであった。その出版の4年前、2000年に世界的にも著名な哲学者である梅原猛氏は中国の考古学者である巌文明氏、樋口隆康氏との共作による「長江文明の曙」という本を上梓している。まず、こちらの内容を先に掘り下げて見たいと思う。 右「長江文明の探求」と左「長江文明の曙」。 この他、梅原氏らとは違う角度、「倭族」という括りで長江文明の古代王国を実証しようとした鳥越憲三郎氏の「古代中国と倭族」も同時に読み込んだので、必要に応じて取り上げてみたい。同書籍は2000年に上梓された。 さらに、「長江文明の探求」の著者の一人である安田氏の筆による2000年に出版された「大河文明の誕生」も取り上げたい。 こうしてみると、2000年というのは長江文明に関する書籍が集中的に出版された年であったようだ。恥ずかしながら、私はこの時期、中国に住んでいたのだが、とんと関心が無く、素通りしてしまっていた。遅まきながら挽回してみようと思う。総じていうならば、古代中国文明を通して、私達日本人はどのような民族で、どのように形作られて来たのかという問いかけに対する答え探しなのかもしれない。 鳥越氏の「古代中国と倭族」のあとがきによると、氏が倭族論の構想が脳裏に浮かんだのは1979年とある。タイの山岳地帯に住む少数民族の探訪からの帰路という。その発想を確かめるため、その年にタイと中国雲南…

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古代中国史

前々回の長江文明、前回の日本の神話の続き。 先に述べたように、神話であるわけだから、如何様にでも都合よく創作したり、改変する事ができるにもかかわらず、「古事記」にはニニギノミコトが日本列島に最初に降り立った場所が、鹿児島県西部の笠沙(かささ)の地であると書き記されている。私には、積極的に記したと考える方が、合理的ではないかと思える。つまり、編纂を命じた天武天皇、そして一説には藤原不比等が関わっていたのではないかとの説もあり、彼らのある意図が隠されていると見た方がすんなり解釈できる。発散しかかっているので、一旦、この件はここまでとし、ニニギノミコトが日本列島に最初に降り立ったと思われる時期、その頃の中国古代史を深堀りして見たい。 さて、アカデミックな世界では大陸から渡来した渡来系弥生人の存在が確認されており、時期は紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃までの弥生時代というのが考察結果である。この時期、中国は西周から春秋戦国時代にあたる。 ここで、いきなり春秋戦国時代から始める前に、中国の古代神話から取り上げて見たいと思う。 神話伝説時代、三皇五帝という言い方があり、8人の神・帝王を指す。所謂「夏」以前の時代のこと。8人の帝王が誰であるか諸説あるようだが、司馬遷著「史記」によると、三皇は「伏義」、「神農」、「女媧」、五帝は「黄帝」、「顓頊(センギョク)」、「嚳(コク)」、「堯(ギョウ)」、「舜(シュン)」ということになる。 三皇のうち、「伏義」と「女媧」は、夫婦とも兄妹とも言われて…

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日本の神話

前回取り上げた長江文明の内容がいささかぶっ飛んでいたので、今一度考察してみたい。 今後整理したい事柄として、(順不同) 1.長江文明 2.苗族 3.中国古代史(特に、春秋戦国時代から秦統一までの時期) 4.日本の神話(「古事記」と「日本書紀」) どれも興味深く順番に掘り下げていきたいのだが、最初に4番目の「日本の神話」を取り上げる。神話の時代とはまさに弥生時代の出来事と思われる。 ウキィペディアによると、「弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。」 この時期の中国はというと紀元前1100年より始まった周(西周)、紀元前770年から始まる春秋戦国時代を経て紀元前221年の秦の始皇帝による中国統一の時代に重なる。 ちなみに弥生時代の名称だが、東京都文京区弥生町の貝塚から発掘された土器を弥生式土器(後に「式」が外され弥生土器)と命名したことによる。もし、お隣の根津町で貝塚が発掘されていたならば、根津土器、根津時代となっていたのだろうか。(昨年末亡くなられた俳優の根津甚八氏を偲んで) 東京都文京区弥生の位置。 さて、前回取り上げた日本最古の歴史書「古事記」(完成 712年)。そして、日本最古の正史は「日本書紀」(完成 720年)である。 最古というのだからそれより古いものは現存しないのだが、調べると ()の中は存在しない…

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長江文明

これまで、2001年から2004年頃までに撮影した上海や旅行の写真をまとめる形でブログを書いてきた。概ね15年くらい前の上海の様子である。劇的に変わっていく街の様子を、大げさにいうならば、記録として残してきたつもりである。 ここで、最近読んだ本の中で大変興味深いものがあったので、少し書いて見たいと思う。勿論、従来のスタイルで2004年以降の当時の写真と現在を比較しながら記録として残す作業も継続する。 タイトルは「長江文明の探求」(梅原猛氏、安田喜憲氏共著 2004年)。世界四大文明(現在はわからないが、私が学校で習った時はそのように教わった)の一つである中国・黄河文明よりもさらに1000年程度も古いB.C14000年頃よりB.C1000年頃まであったとされる長江中下流域の稲作中心の文明で、稲作日本のルーツかもしれないという内容。 蛇足だが、学校で黄河文明について習った当時、中国の地図を見て、漠然と、黄河より大きな川、長江(当時は揚子江と習った)の方が、黄河に比べ南に位置し気候的には温暖で住むには適しているだろう、ならば何故、黄河文明に匹敵するような文明がなかったのか? 疑問に思ったことがあった。 中国の地図。 ちなみに「揚子江」の呼び名は、南京から下流の一部分の呼び名で、上海あたり?でこれを耳にした最初の外国人が、この川の名を「揚子江」と思い(勿論間違いではない)、これが世界に広がったためらしい。正しくは川全体を「長江」、南京より下流の一部分を「揚子江」と呼ぶ。た…

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