邪馬台国はやはり宮崎平野にあったろう 2

邪馬台国はやはり宮崎平野にあったろう の 第2弾。

「魏志倭人伝」をきちんと読めば、畿内も北九州(福岡)もありえないと言う話をしたい。

まず、邪馬台国の場所を推察する上で、「魏志倭人伝」をその拠り所とするのであれば、書かれた内容を忠実に解釈することが必要である。
部分的に取り上げたり、ここの表記はどうも違うので無視する、あるいはこうだろうと勝手に変えては、どのような解釈も成り立ってしまう。そんな馬鹿な話はないのだが、悲しいかな非常に多くの人がこのことを理解していない。
また、分からないことは分からないのである。そこは無理に解釈する必要はないのである。

邪馬台国までの道のりについては、中田力氏の著作「日本古代史を科学する」(PHP新書 2012年発行)の内容をベースに先日「邪馬台国はやはり宮崎平野にあったろう」で 簡単に書いたのでここでは取り上げない。別途、詳細に書いてみたい。また、多くの人たちがこの道のりしか注目せず、ここだあそこだ、と推察しているので、「魏志倭人伝」に書かれた道のりそれ以外の記述に注目する。

それでは始める。

倭国(邪馬台国、女王国)の場所に関わる記述を抜粋したい。
原文、訳文は色々あるのだが、ここではウキィペディアを使用する。

1.倭の国(邪馬台国)は島にある。しかも1周5000余里とある程度大きさを認識していると言うことである。

(原文)参問倭地、絶在海中洲㠀之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

(訳文)倭の地にたずねつけば、周りをとざされた海の中の島の上にあり、離れたり連なったりして、一周で五千餘里くらいである。

この記述を無視してはいけない。倭国(邪馬台国)は島にあると明言している。これを無視するのであれば、勝手にしろとしか言いようがない。しかも、5000余里と、多少アバウトではあるが、島の大きさがすでに大方理解できていたということである。その大きさ5000余里だが、比較するには同じ魏志倭人伝の中に記される「(訳文)帯方郡から倭に至るには、海岸に循って水行する。韓国を経るのに、時に南し、時に東する。〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。7000余里である。」と比較すると、その島は九州と推察して間違いなさそうである。

こうした記述があるにもかかわらず、畿内だと説く人はなんなんだろ。
畿内に何らかの勢力があったことは間違いないが、それは明らかに魏志倭人伝に記された邪馬台国ではないということである。


2.島の中でも かなり南方にあったと推測できる。

(原文)自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。

(訳文)女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。

女王国の北に21カ国あると記している。とするならば、女王国はかなり南にあったのではないか?
そうすると、北九州、福岡などという説には無理があるのではないか? 


3.その南には(記載されている国としては)1国しかない。

(原文)其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。

(訳文)其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。

南には1カ国しか記されていない。実際に1カ国しかなかったのか、記していないだけなのかは分からないが、2項で書いたように、北には21カ国あると詳しく書いてあるのに比べると、南は明らかに国数は少なかったことは間違いなさそうである。とするならば、やはり南に位置していたと考えて間違いなさそうである。


4.女王国の東、1000余里海を渡った所にも倭人が住んでいる。

(原文)女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種

(訳文)女王国の東に海を千余里渡ると、また国があり、皆倭人である。

女王国の東は海に接していたと理解できる。また、1000余里渡ると倭人が住んでいるとある。1000余里という距離だが、魏志倭人伝にはちょうど3回登場する。

(原文)「始度一海千餘里、至對馬國」 (訳文)始めて一海を渡る。1000余里。対馬国に至る

(原文)「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。」(訳文)また南に一海を渡る。1000余里。名を瀚海という。

(原文)「又渡一海千餘里、至末廬國。」(訳文)また一海を渡る。1000余里。末廬国に至る。

狗邪韓国(こやかんこく)=釜山近郊、から対馬、壱岐島、唐津までのそれぞれの距離を1000余里と記しているが、実測では、概ね、104km、64km、41kmとかなりばらつきがある。当時の測量技術ではここら辺が限界なのかもしれぬ。
(注 距離のデータは中田力氏「日本古代史を科学する」から)

何れにしても、この記述では、畿内も北九州も当てはまらない。


5.紹興の東となると緯度的にはかなり南、九州のかなり南部に位置する。

(原文)計其道里、當在會稽東冶之東。

(訳文)その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。

三国志時代の會稽というのは今の浙江省紹興、東冶というのは會稽郡の下の県単位。東冶を福建省と解釈している人がいるが間違い。その會稽のちょうど東、つまり緯度が同じとなると九州のかなり南に位置する。

こうしてみると、畿内説も北九州(福岡)もない。前回書いたようにこれら記述を満たすのは やはり 宮崎平野しかないのである。
宮崎平野の東は海・日向灘であり、概ね東を見るとそこは四国である。

ここで、Google Earthの地図を見る。
邪馬台国.jpg

私は単に史実を知りたいと言うこと。これに尽きる。
2000年近い前のこと、決定的な証拠がない以上、残された書物や遺跡、神話、伝説などから推測していかなければならないのだが、どれも決定打ではないため、いかような解釈も成り立ってしまっている。

しかし、きちんと読み解けば 「邪馬台国はやはり宮崎平野にあったろう 」としか言いようがない。

続く

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