中国古代史 その1

暑かった夏も終わり、ようやくブログの続きでも書いてみようという気になってきた。

今回はしばらく続けていた邪馬台国関連はひとまずお休みし、日本の生い立ちを知る上でも欠かせない中国古代史を改めて掘り起こしてみたい。

世界四大文明の一つに挙げられている黄河文明、私たちの世代はこう学校で習ったが、それを凌駕するレベルの文明が長江下流域に存在していたことは長江文明のシリーズで書いてみた。
最近の動きでは、ほぼ存在が確定された中国最古の王朝・夏(紀元前1900年頃〜1600年頃)より以前に長江流域に王朝があったのではないかということである。この流域の当時の文化圏は「良渚文化」である。恐らく、王朝の定義が鍵となるだろう。
長江文明(良渚文化)に関しては、何故、あれだけ栄えていたものが紀元前2000年頃、一夜にして消え去ったか大きな謎であると書いたが、一つは黄河文明と衝突し戦で負け逃亡したという説、あるい大洪水説。先のブログを書いた頃は前者の可能性が高いと考えていたが、良渚文化圏の遺跡発掘状況などから判断すると後者の可能性の方が高いのではと考えている。

次に、黄河文明について掘り下げてみたい。黄河文明と一口に言っても、あれだけの大河、上流域、中流域、下流域ではその遺跡から発掘された内容物は大きく異なっている。黄河文明というと、主として中流域、所謂中原(陝西省〜河南省)と言われるエリアが中心である。しかしながら、黄河下流域、今の山東省済南市や臨淄市あたりでは稲作も行われており、どうも中流域の文化圏というよりは、長江下流の稲作文化に近いものがある。なんか腑に落ちないところがあるのである。

さてここで、最近、目覚ましい進化を遂げている遺伝子研究について触れてみたい。特にY染色体のハプログループの解析は男性のみに受け継がれるY染色体の突然変異を追跡することで、20万年前にアフリカで生まれた1家族が現存する新人類(ホモ・サピエンス)の先祖であることが分かっている。ちなみに、当時1家族だけだったことを意味するのではなく、子孫が残っているのはある一人、そう「アダム」と呼ばれる男性だけだったということである。
アフリカで生まれた人類はその地を出て地球上に拡散する。最初に東アジアに到達したのはCグループ、及びDグループである。DグループのうちD1a2は縄文人と言われている日本固有の人たちである。
2度目の拡散により北ルートで大凡4万年前にNOタイプから枝割れしたOタイプが中国大陸北西部にたどり着いた。日本を含む東アジアに広がるOグループは皆ここから拡散したことが分かっている。

アフリカを出た人類が移動したルート。ウィキペディアより拝借。

人類の移動2.png

Oタイプは、大凡3万年前に、遺伝子の「ゆらぎ」、突然変異(簡単にいうとコピーミス)によりO1、O2に別れる。逆に、この「ゆらぎ」がなければ、ハプログループの分類ができず、時系列で追跡することができない。アフリカ起源のAタイプがこの遺伝子の「ゆらぎ」により枝分かれを続け、足跡を残し、そして現在も進行中である。1万年に一度起きるかどうかというコピーミスといういたずらが遺伝子の足跡として追跡を可能にしているのだから、奇跡的なことと言えるのではないか。
その後、O1はさらにO1a、O1b1、O1b2、O2はO2a-M324(O-M134系)、O2b-F742(O-M7系)という五大系統に分かれる。現在の表記は2014年から17年に改定されたもので、それ以前は、O1、O2a、O2b、残りをO3という括りのサブクレード表記で行なっていた。

東アジアの人類の移動ルート。同じくウィキペディアより拝借。

Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png

なお、これらの研究は遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)という、分子生物学、集団遺伝学や遺伝子系譜学の研究発展のためボランティアの非商用・非営利目的の団体により運営されている。

さて、上の図だけではっきりしないので、Oグループだけ拾い、そこに文明、文化を重ねてみた図が次の通り。

中国地図b.jpg

順を追って説明していく。まず、大きく大別すると4つの文化圏が存在する。黄河の中流域と下流域、長江の中流域と下流域。以下に文化圏毎の担い手をまとめる。

黄河文明
黄河中域(中原): 仰韶文化 紀元前5000年〜3000年 → ほぼO2−M134系(旧O3)、現在の中国大陸に住む人の50%強を占める。
黄河下流 : 大汶口文化 紀元前4300年〜2600年、山東龍山文化 2600年〜2000年 → O1b2系(旧O2b)と考えられている。

長江文明
長江下流 : 良渚文化 紀元前3200年〜2000年(1800年とも) → O1a(旧O1)と考えられている。
長江中流 : 大渓文化 紀元前5000年〜3300年 → O2−M7系(旧O3系)で確定。遺体よりO2−M7系(旧O3系)が発掘されている。

※ 文化圏の定義は時代ごとにさらに詳細に分かれているのだが、地域ごとの代表のみを書いてみた。

このことから、古代中国の地域別文化発展を支えてきたのはハプログループで概ね色分けできるということである。

Oグループから別れたO1はさらにO1a、O1b1、O1b2に別れる。長江・中流域東側(湖南省)の彭頭山文化(紀元前7500年〜5800年)から始まり、下流の河姆渡文化、馬家浜文化、崧沢文化を経て良渚文化に繋がる文化圏は稲作の民O1aによるものと言われている。この系統はオーストロネシア系とも言われ、紀元前2000年頃に台湾や中国南部(広東省など)、東南アジアに拡散したと言われている。やはり、大洪水により地域が壊滅したことで、新天地を求め移動していった可能性が高い。

同じ長江中流域西側(重慶付近)には、大渓文化が存在する。遺跡発掘の結果よりO2−M7系(旧O3)の遺体が多数見つかっている。元々黄河中流域(中原)に住んでいたこのグループが現在の中国の主流であるO2−M134系(旧O3)と別れ移動してきたとみられている。これらのグループは雲南省などの山岳地帯、あるいは東南アジアに住むモン・ミエン系民族に繋がる。モン族こそミャオ族(蔑称であるため、自身はモン族と称している)、つまり苗族である。日本の学者の中に苗族こそ日本人の祖先であるというような主張があるが、Y染色体の分析からするとその可能性はない。
司馬遷の「史記」、あるいは神話の世界の中に、中原を代表する黄帝系(O2−M134系)と蚩尤(苗族が信仰する先祖)の争いがある。これはまさに、O2−M134系(主流派)とO2−M7系の争いがあり、後者がその地を出て、長江中流域に移動したことと符合する。

ここで、「夏」という現時点での中国最古の王朝だが、担い手は誰だったのであろうか? 「夏」の場所は、概ね仰韶文化と大汶口文化の中間地、中原より東側の河南省に位置する。司馬遷の「史記」ではO2−M134系(主流派)の黄帝に繋がる子孫が興したとはあるが、「長江文明の発見」の著作がある徐朝龍氏は、良渚文化の担い手であったO1a(旧O1)系の人々が、大洪水で一帯が壊滅状態になった後、多くの民は先程書いたように台湾や中国南部(広東省など)・東南アジアに拡散したが、王族・貴族などは北に逃れ「夏」を建国したとみている。「邪馬台国はやはり宮崎平野にあったろう」で取り上げた中田力氏も同様の考えである。当時、良渚文化圏はもっとも階級社会が進んでおり、戦争遂行能力も高かったとみられている。こうしたこともあり、冒頭述べたように「夏」以前に良渚文化圏に王朝があったのではないかという議論が起こっている。

次に黄河下流域、山東省エリアを眺めてみる。後李文化(紀元前6500年〜5500年)に始まり、北辛文化、大汶口文化、山東龍山文化と繋がる文化圏は、稲作の民・O1b2系(旧O2b)と言われている。しかしながら、ここの決定的な研究結果は今の所見当たらないが、このO1b2系の民こそ日本の生い立ちに深く関わっている。この行については次回以降に書いていきたい。

さて、紀元前2000年頃に起こったとされる長江下流域の大洪水後だが、O1a系民がいなくなったあと、長江北岸(蘇州近辺)には北からO1b2系(旧O2b)が、南側(杭州近郊)には南からO1b1系(旧O2a)が移り住んできたと言われている。後の春秋戦国時代の前者が呉、後者が越に繋がる。呉を滅ぼしたのは越、越を滅ぼすたのが楚である。
この大国・楚は、今だ解明できていない点が多く、ウィキペディアには「漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説に大きく分かれ、さまざまな仮説がある」と書いてある。北来説はまさにO2−M7系説を示し、南方土着説はO1a系説と思われる。あるいは、混成チームだったのかもしれない。

呉、越、楚、何れにしても黄河中流域(中原)から見れば、異民族、野蛮な人種と称されていた。

下の表は、ウィキペディアに掲載されている民族別のY染色体ハプログループに関する分布である。比率の合計が必ずしも100%ではないのは、それ以外のグループが存在するということである。

比率a.jpg

漢民族においてO2−M134系(旧O3)が50%強、O系全体で80%を越しているのは理解できるが、O1b2系(旧O2b)が想像していたよりも数字が低い。また、文中取り上げたモン族(ミャオ族)においてO2−M7系(旧O3系)が80%近く示すのは、まさにO2系が枝分かれしたことを物語っており、やはり日本人の祖先とは言い難い。
問題なのは日本人で、我々は弥生人、渡来人という曖昧な表現で、それまで住んでいた先住の縄文人(D系)と共存しながら日本人を形成していったと学んだが、確かにそうなのだが、もっとはっきりいうと、O1b2系(旧O2b)が全体の30%、O2−M134系(旧O3)が20%でO系がほぼ半数を占めていることは、小規模な移住ではなく、かなり大規模な移住であったと言わざるを得ないだろう。

そこの考察は次回に。

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