宮崎平野の古墳群1 西都原古墳

先日、邪馬台国はやはり宮崎平野にあったろう という記事を書いた。中田力氏の著作「日本古代史を科学する」(PHP新書 2012年発行)の前半部分のクライマックスである。後半はもっとぶっ飛んでいる。学界のタブーどころか、これまでの古代史をひっくり返す内容である。渡来人とか弥生人という表現でぼやかしていた日本古代史を恐らく塗り替えてしまうだろう。いずれそのことを書きたいと思うが、私なりにもっと肉付けしてから書いていきたい。

幸い私は現在上海に住んでいる。長江文明の担い手たちの遺跡、跨湖橋遺跡、河姆渡遺跡、馬家浜遺跡、羅家角遺跡なども上海から車で2、3時間でいける場所にある。遥か昔、ここに住んでいた人間たちが戦に敗れ、命からがら海を越えて日本にやってきたことも想像に難くない。その手掛かりを何としても集めて見たい。日帰り圏内、近いうちに必ず行くつもりである。
古い年代順に列記すると、

跨湖橋遺跡 約7〜8000年前
河姆渡遺跡 約7000年前
馬家浜遺跡 約6000年前
羅家角遺跡 約6000年前

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さて、話を邪馬台国があった可能性の高い宮崎平野に戻す。その検証の一つとして「記紀」に書かれた神話の世界の精査もしたいが、その前に宮崎平野にある古墳群の情報を整理したみたい。

まずは、特別史跡に指定されている九州最大の古墳群「西都原古墳群」を取り上げる。ここには、前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基の合計319基ある。中でも男狭穂塚・女狭穂塚は天皇家祖先の御陵の可能性があるため、宮内庁陵墓参考地に指定され、正式な発掘調査は実施されていない。因みに宮内庁陵墓参考地は西日本中心に50近くある。

宮崎県立西都原考古博物館のホームページには以下のように紹介されている。
「特別史跡西都原古墳群は、宮崎県のほぼ中央、一ツ瀬川の右岸、西都市街地の西の通称「西都原台地」とその周辺の中間台地や沖積地にあり、その範囲は南北4.2km・東西2.6kmに及んでいる。指定面積は58haを超える。西都原古墳群は、3世紀末から7世紀にかけて築造され、〜(中略)〜 古墳の分布と築造年代等により10~13の小群に分けられる。また、古墳群には、墳丘をもつ古墳に加えて、南九州に特有の地下式横穴墓や全国に広く分布する横穴墓が混在する。」

西都原古墳群の場所 (Google Mapより)

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西都原古墳群の全体像 (宮崎県立西都原考古博物館のホームページより拝借)
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先に男狭穂塚・女狭穂塚は天皇家祖先の御陵の可能性があると書いたが、宮内庁によると被葬候補者(該当御方)は、男狭穂塚が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、女狭穂塚はその妻・木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とされている。天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓がこの地にあったということは、邪馬台国がこの地であったか否かに関わらず、西都原含めた宮崎平野は古代史を読み解く上で鍵になると考えるのが自然ではないだろうか? 一方では神話と言いながら、他方では神話を利用し、実際の被葬の候補者として扱い発掘調査させない不思議な対応である。

男狭穂塚・女狭穂塚の墳長 (宮崎県立西都原考古博物館のホームページより拝借)
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これは、独り言だが、日本列島にその昔から住んでいた縄文人と言われる伝統的な職人気質の人たちは、集団が出来、その中から指導者が生まれたとしてもこんなにでかい墓を造ることはなかったろう。始皇帝の墓にも見られるような中華系人種による自己顕示欲の現れそのもののような気がしてならない。

宮崎県立西都原考古博物館ホームページによると、
女狭穂塚は墳形:前方後円墳、時期:5世紀前半、墳長:176.3m、
男狭穂塚は墳形:帆立貝形古墳、時期:5世紀前半、墳長:176mという。
さらに、「男狭穂塚・女狭穂塚は、5世紀前半に築造された南九州の盟主墳である。1895(明治28)年、宮内庁により陵墓参考地に治定され、一般の立ち入りは制限されている。女狭穂塚は九州最大の前方後円墳、男狭穂塚は列島最大の帆立貝形古墳である。男狭穂塚は、方壇部端が不明確であるが、地中レーダー探査の結果、その墳長は、女狭穂塚とほぼ一致する176mであることが判明した。男狭穂塚・女狭穂塚の出土遺物には、円筒埴輪や形象埴輪(家・盾・冑・肩甲・短甲・草摺・鶏)」とある。

さらには、続編でも取り上げたいと思うが、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の孫、初代天皇・神武天皇の父親である鸕鷀草葺不合尊、別名彦波瀲武草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」の陵墓参考地(宮内庁が指定)が同じ宮崎県日南市に吾平山上陵にある。
日本書紀に「尊が崩御されると、日向(ひむか)吾平山上陵に葬られました」と、記載されており、それが元になっている。
普通に考えると、アマテラスからニニギノミコト、そして神武天皇に繋がる人たちの陵墓がこの地にあったとするならば、まずはこの地を調べることが王道ではなかろうか?

魏王が卑弥呼に贈ったとされる親魏倭王(しんぎわおう)の封号、「親魏倭王」印、これは未だに発見されていない。実在するのかしないの分からぬが、少なくとも近畿内であればまず出て来ることはないことを知っているのだろう。仮に出てきたら、願ったり叶ったりだろう。問題は、宮崎平野に数多くある古墳、すでに潰された古墳群から出てきてしまうこと。だから、宮内庁管轄にして正式な発掘調査をさせなかったり、先に書いたように笠置山古墳(正式には命名されていない)は九州電力の所有地となり、すでに開発が進み発掘不可能な状況になっている。何としても発掘させないぞという強い意思を感ぜずにはおられない。宮崎平野に邪馬台国があったことを認めてしまうと、万世一系が吹っ飛び、天照大神が天皇家の先祖であるということの本当の意味が露見することに繋がりかねないのだろう。

2000年以上前、国境も何も無く、大地は誰のものでも無い、そんな状況の中、他所の地から戦に敗れ命からがら逃げてきた人達、あるいは大船団を組んで移民してきた人達。そうした人達がやがて大きな集団になり力をつけたとしても何ら不思議ではない。寧ろ、そんなことはなかったと考える方が不自然である。

宮崎の古墳群は続く

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