今週末から

今週末からしばらく 日本、パリ、ロンドンを周遊する。 日本は周遊のうちには入らないか。

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世紀大道駅 六叉路交差点 6

世紀大道駅 六叉路交差点 5の続き。前回2005年から、ずいぶん時間が経過してしまった。時期は2008年1月。 周辺の地図。 Google Earth 2008年4月の様子。 地下鉄4号線「浦東大道」駅で降車し、福山路を歩く。福山路は東方路の通り一つ東側の住宅街にある通り。北側に上海海神诺富特大酒店(ノボテルホテル)が見える。 福山路を南に歩く。この先が張陽路。 張陽路を右に折れ、世紀大道との交差点から陸家嘴側を見る。上海環球金融中心(ワールドフィナンシャルセンター)の最上階、手で持ち上げられるよう取手の部分の工事が行われている。 世紀大道の南東側を見る。歩道を整備中。 東側に視点をずらす。 右に地下鉄「世紀大道」駅の入り口が見える。 さらに東に視点をずらす。世紀大道側は青いトタンのフェンスで囲われている。トタンではなく、壁を作り込んでいる。 東方路と張陽路の門に立つマンション。 世紀大道から陸家嘴側を見る。 寒い1日。今日はここまで。 つづく

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霍山路・舟山路の歴史建造物群

虹口区の東端、歴史保存建造物が多く集まる霍山路、舟山路エリアを散策。この辺りはかつて日本軍が国籍の無い難民の居留地区に指定したため、ユダヤ人難民などが多く居留していた。周辺にはその名残のある建物が多く残っている。地下鉄12号線「提籃橋」にほど近い。散策したのは2008年1月。 周辺の地図 霍山路に到着。 1910年代に建てられた赤煉瓦作りの歴史保存建築物。ここにアメリカ・ユダヤ連合救済委員会なるのもが置かれた。どの建物も三階部分が三角形の形をしているのが特徴的。 現在、勿論住居として利用されている。洗濯物がそれを物語っている。 そのお隣もこれまた歴史保存建築物。一画で食品店を営んでいる。 舟山路との交差地点にある、これまた19010年代に建てられた歴史保存建築物。宋慶齢が霍山路に住んでいた1930年代、この地で反戦大会が開催されたらしい。 正面から。 交差点の角から。 舟山路の様子。右サイドは普通のアパート群。 その隣にも歴史保存建築物が連なる。 これはでかい。通り一区画分くらい続いている。 振り返ってみる。 朝陽路に出て左に折れると、上海犹太(ユダヤ人)難民記念館がある。この地区に住むユダヤ人はもともとロシア系ユダヤ人で、ロシア革命から逃れてこの地に移り住んだのが始まり。その時の集会所である摩西会堂(英语:Ohel Moshe Synagogue)が原型。 …

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長江文明 6 長江・黄河そして日本

長江文明 5 長江文明の衰退の続き。 3章 「長江・黄河そして日本」。この章は梅原氏と京都大学名誉教授であり考古学者の樋口隆康氏との対談がベース。この対談では各方面の話題が出て大変興味深いのだが、いくつかピックアップしてみる。 ・やはり何と言っても、文字の存在。北(殷:黄河文明)では見つかっているが、南(長江文明)では現時点で前段階の符号のようなものは出ているが、文字は見つかっていない。(樋口氏) 殷で見つかった亀甲文字 現在確認できる最古の漢字。 (画像はウィキペディアより拝借) ・文字の必然性を考えると、異民族を征服して一つの国に統一したことが文字の成立に関係しているのではないか?同じ民族、同じ文化なら文字を作らなくても言葉で意思疎通ができる。(梅原氏) ・統一したら、その範囲内においては同じ一つの文字がないと困る。亀甲文字というのはすごい。あれだけのものができたということは、それだけで大変。殷の優れている点はやはり文字の発明。(樋口氏) これは大変重要な指摘と思われる。このことは日本の縄文時代にも言えるのではないか。統一や征服とは縁遠い縄文時代の社会的背景が文字を必要としなかったのではないか? 言葉があれば意思が伝わるということ。 さらに、話題は多方面に広がり、 ・稲作は朝鮮半島経由でわざわざ遠回りでくるのはおかしい。長江から真っすぐ来たのではないか(樋口氏) ・北(黄河流域)では墓は地下深く掘って、そこに遺体や豪華な副葬品を安置し、地表の上に…

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長江文明 5 長江文明の衰退

長江文明 4 都市文明の成立の続き。 前回、「紀元前2000年頃(今から4000年前)頃を境にして、長江流域全体が停滞期を迎える。これが、中国歴史最大の謎である」で終わった。その続き。 ここで、もう一度石家河文化圏の三苗民族と良渚文化圏の古代越人について触れておく。 三苗民族は長江中流域で紀元前3000年前半から末期にかけての複合民族共同体。 ウィキペディアによると、『山海経』(中国の地理書)には「三苗人は人間の姿をしているが常に誰かとくっつきながら歩く」など、相当悪く書かれている。尤も、この書は秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて書かれたものなので、漢民族視点であることは言うまでもない。 また、三苗人は「南蛮」、「苗蛮」と記載されていたとも。(著者加筆 :要は野蛮人) 古文献上の広義にいう「三苗」は、部族や村落を単位として生活している民族たち、王朝の支配下におかれていない民族たちに対して総称的(同 :蔑称的)に用いられてたとみられ、複数の民族がそのなかには含まれるとも見られている。 ミャオ族(苗族)、ヤオ族はその末裔とも言われている。 石家河文化圏 古代越人(古代の越の先住民、祖先)、百越とも呼ばれる。ウィキペディアによると、「古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた越諸族の総称」とある。つまり、南方に住んでいた多くの民族諸族の総称なので、百を付けている。現在、越族という名の民族(中国でいう…

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長江文明 4 都市文明の成立

長江文明 3 土器の起源の続き。 第2章 都市文明の曙光 (問)都市文明はどこで発生したのか? (答)城壁を作っての城壁都市は長江中流域の城頭山遺跡が一番古い。紀元前3500年、今から5500年前から5000年前に巨大な城壁を作るようになった。但し、考古学上の証拠としては、今から5000年前から4000年前の間、とりわけ長江の中流域と上流域、それから黄河流域にたくさんあらわれるようになった。今の所、長江中流域が城壁都市を作るのも、稲作、土器の出現も一番古い。今後の調査に期待したい。 城頭山遺跡 (問)それはどのように発展したか? (答)5000年前、黄河流域、長江流域において、城壁を作って巨大都市を形成させるようなことが一般的な現象となっていた。考古学の発掘で、各地で戦争が頻繁に起きていたという証拠が見つかった。戦争が激しく行われたことで、人間とか集団はみな自分を守るため、どうしても城壁を作り、都市へと変貌していった。 約紀元前2600年から2200年頃(今から約4600年から4200年前)の原始社会部落分布の古代地図 興味深いのは「三皇五帝」神話と言われていた炎帝(神農)、伏義や黄帝の部族が地図上に表記されていること。 「三皇五帝」神話については、古代中国史をご参照ください。 (地図はDr. Gang Guo氏のホームページより借用) 戦争が頻繁に起こると、皆が一致団結して一つの事に当たらなければならない。皆を結束させる最大の力は…

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海寧路から宝山路駅まで

河南中路から海寧路までの続き。時期は2008年1月。 周辺の地図。 前回、河南中路から海寧路まで歩いた続き。 海寧路と河南北路の交差点を東に進み、江西北路を曲がり北上する。突き出た洗濯物の干し竿が見事である。 天気が良いわりには洗濯物がちらほら。洗濯日和でっせ。そう、大きなお世話である。 程なく進むと安慶東路にでる。 安慶東路を右に曲がる。道幅が狭くなる。 かなりの密集度である。 この先行き止まり。 江西北路に戻り、北上を続ける。 来た道を振り返る。海寧路沿いに建設中の中信広場が見える。 先に進む。 武進路との交差点に出る。角にある中華ファストフード「振鼎鸡」店。 武進路の東側の様子。 西側。 江西北路はこの先、羅浮路と名が変わる。 東民新路とのT字路に出る。 東民新路の西側の様子。 羅浮路から路地に入った様子。 羅浮路はさらに龔家宅路と名が変わる。 かなり入り組んだ路地になる。 地下鉄4号線の高架が見える。 虬江支路に出る。 虬江路に出る。地下鉄4号線の高架が見える。 自家製の看板が目につく。 新広路に出る。左は新虬江电子市场。電器関連の商店が密集する。 西側をみる。金芙世紀公寓が見える。 新広路の北側の様子。右に曲がり虬江路をそのまま先に進むと四川北路にぶつかる。 虬江路を左に曲がり西に進む。中州路にある…

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河南中路から海寧路まで

2008年1月 天気は良好だが寒い1日、河南中路から河南北路、江西北路を経由して海寧路まで散策したのでその時の様子。 まずは、河南中路周辺の地図。 河南中路と天津路の交差点付近から南側を見る。中央は南京東路に面した華東電力大楼、その右は建設中のForever21。その手前、左側は間も無く建設が始まる新世界大丸百货の用地。右奥は冠をかぶった外灘中心ビル。 地下鉄10号線の工事のため、河南中路は一部閉鎖されており、左サイドに迂回路が設けられている。 寧波路との交差点辺りから反対側、北方向を見る。この先は北京東路。写真左、北京東路との交差点の西の角は国華大楼。 北京東路との交差点付近。 河南中路を北に進む。呉淞江に架かる河南中路橋の補修工事中。 バスがすれ違う。道幅が狭くなっているので、結構難儀してる。 呉淞江を西向きで眺める。福建北路に架かるアーチ型の橋が見える。右は河浜豪苑、その左隣が華僑城蘇河湾西区。 橋の下側に回り込んで、工事の様子を見る。 正面に何やら古めかしい建物がある。 その建物の前を上から覗く。 後で調べて見ると、上海总商会の旧址と判明。元は、清の時代、政府高官が外国に出発する際に駐留した官邸(出使大臣行辕)。1899年、租界が拡張された際、この場所も租界エリアに含まれたが、ここと天后宫のみ中国政府の官地として飛び地のような形で存続。1995年に取り壊された香港の九龍砦城と同じ。 上海总商会旧址横の…

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長江文明 3 土器の起源

長江文明 2 稲作農業の起源の続き。 次に、梅原氏の以下の3つの質問に対し、巌文明氏が大変謙虚に答えられている。 1.稲作農耕起源が何故長江中流か? 2. 石器文明、旧石器・新石器の関係 3. 土器の発生 巌氏の説明を簡潔に言うと、 1、今まで発見された中で、長江中域が差し当たって一番古い。しかし、唯一の中心地だったか判断するには時期尚早。下流域の稲作は中流から伝播した様相がない。今後下流域において発掘が進めばさらに古い時代のものが出てくる可能性はある。 長江下流域の遺跡分布をまとめてみる。 長江下流域の遺跡については、鳥越氏の「古代中国と倭族」が詳しいのでそこから引用する。文化区分別に記載。 ■河姆渡文化 (約7000年前) オレンジ 河姆渡遺址:浙江省余姚市 1973年6月に発見 炭素14の測定で紀元前5005年±130年、4790年±130年、今から約7000年前と計測される。黄河文明の仰韶文化が6000〜6500年前とされるのでこれをはるかに越える。発掘調査が小範囲であったため、水田遺構は発見されなかったが、大量の稲籾・稲茎・稲の葉や高床式住居跡が出土。 羅家角遺址:浙江省桐郷県 1979年〜80年に発掘。 同測定で紀元前5090年±125年、4955年±155年と計測。河姆渡遺址より少し遡る。炭化籾が多量に出土。分析の結果、インディカ米が70%、ジャポニカ米が30%。 ■馬家浜文化 (約6000年前) グリーン 馬家浜…

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